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母が聴いたことあると言ったビートルズの「SHE LOVES YOU」 [エッセイ]

「お前をこんな弱く産んだつもりはない」と口癖のように言っていた母親。
末っ子で虚弱児に育った我が子を見るにつけ、ただただ情けなかったのではなかろうかと、最近、母の言葉を思い出しつい懐かしくなった。しかし弱い者は弱いなりに生きていけるもので、当の本人はそのことに関しそれほど思っていないものだ。それより、あれは母の優しさだったのではと思い返す日がある。

北国もやっと春の日差しを強く感じる季節になってきた。窓に射す西日は大寒の頃とではまるで違っている。人間はこうもお調子者かと思うくらい気持ちがウキウキし始める。ステレオのアンプにスウィッチを入れ、探すレコード盤もロックンロック調のアップテンポなものを選びがちだ。

20枚にも満たない古いレコード盤をひっくり返すも、取り出すものはすでに決まっている。この時期はいつもビートルズである。半年も聴かないでいると「おお、しばらく」と口ずさむ。「SHE LOVES YOU」を聴くたびに、ビートルズを覚え始めの頃を想い出し、ふうーとため息に似た息を吐いてしまう。

彼らのレコードが出て5年を過ぎても、我が家にはまだそれを聴けるような代物は何もなかった。ある日、同級生が貸してくれた携帯用のプレイヤーで、それも借りたドーナッツ盤を茶の間で掛けていた。すると内職をしている母が急に「それ、わし若い頃聞いたことがある」と言い出した。

そんな訳がない。母は1910年・明治43年生まれである。「かあちゃん、これは5年近く前の曲だよ。かあちゃんが若い頃聞くわけないっしょ」「いや、わし聴いたことある」。母はずうっと譲らなかった。その後も、内職の手を休めることなく、うんうんと頷きながら聴き入っていた。それが「SHE LOVES YOU」だった。

他の元気な姉兄と同じように産んだはずなのに、なぜ末っ子の私だけ弱いのか。母の疑問でもあり、恒に気がかりな存在でもあったようだ。小学校へ通うようになった頃、毎日のように飴状で鼻にツンと来る「神薬」を舐めさせ送り出していた。

一人でビートルズを聴く情けない我が子の背中を見て、つい出た言葉なのだろう。晩年、80代後半になった母にその話しをすると「わし、そんなこと言ったかい」とけんもほろろだった。「昔のことは殆ど覚えていない」が口癖になってもいた。そういう母親の優しさを、逝って10年過ぎた今になっても懐かしく想い出すことは「親孝行の一つさ」と自分に言い聞かせている。

ホームページ「大雪の麓の空っぽ庵」をやっと、更新できました。宜しかったら観てください。
空っぽ庵:http://www7b.biglobe.ne.jp/~karappo-ann/index.html

パニック障害と老子・荘子の教え  [エッセイ]

このブログに書くのもかなり久しぶりになります。7月以来のようですね。この夏、精神的にあまり落ち着きがなく、やっとその夏を通り過ごせたように思えます。すると不思議なことに、気持ちにも落ち着きがでてきて、長い間机の前に座っていられるようになりました。

こちらはすっかり秋になりました。旭川はかなり朝夕は冷え込みがきつく、小さなストーブで暖をとるようになりました。このところ、朝は6度から7度位でしょうか。それでも昼頃になると、20度前後になるのでまだ助かります。これが、10月の半ばになると、最高気温も10度を切ることもしばしばでしょう。そうなると、薄手のセーターも必要になり、冬への準備というところでしようか。

これから少しづつでもまた「パニック障害」で悩んでいたときのことを書いていこうかなと思います。ただこれは、インタ―ネット新聞Janjanの「JANブロ」に書いたものに、加筆したものです。少しの間それを続けます。あしからず。

 

パニック障害と老子・荘子の教え 

「老子」について、ほとんど知りもしない私が語ろうと思ったのは、「老子」に詳しい人が書いた解説本を通して知ることでも、相当「心が楽になる」人が多いのではと思ったからである。

それで一人でも二人でも、「あぁ、私と同じ人がいる。悩んでいるのは自分だけではなかったのか」と分かって、その人が少しでも「心が楽」になれば、それだけでいいと考えたからだ。ブログを通して語ることで、少しでもお役に立つのならと考えたのだ。

その私が、心が楽になりたかった理由は、「パニック障害」という、まったく訳の分からない“心の病”にかかり、いまだ完治しないでいるからにある。この病は外から見えないので、自分以外の人に、例えば家族であっても中々理解してもらえず、そのことに悩んでしまいがちである。話を聴いてもらうだけでどれほど気持ちが楽になることか。

メールを通して語り合うだけでもかなり違う。だけど当然、精神科医師ではないので、体験しか話すことしかできない。それでも、少しでもいい、一緒に快方に近づいていければいいなと思う。

それには、先ず自分の体験を話さなくては理解してもらえないだろう。「老子おじさんとの遊び方」も理解できないと思う。パニック障害については、最近、やっと多くのところ(例えば、教育TVなど)で取り上げられるようになった。でも、まだまだというというのが正直なところ。次回から自分の体験を、ゆっくり時間をかけて話すようにしたい。

 

伊那谷の老子

伊那谷の老子

 


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パニック障害と「老子・荘子」との出会い ― 1 [エッセイ]

老子・荘子

はじめに
自分の人生に多いに悩んでいた時があって、本に頼るのはおかしいと思いつつも、何か道しるべはないかと、ノウハウ本を探していた時期があった。でも今振り返ってみると、それはあながちおかしくも間違ってもいなかったようだ。

私が『老子・荘子』と初めて出会ったのは、40歳を過ぎてからだった。『老子・荘子』の考えを詳しく説いた(解説書のような)本を手にして15年が過ぎる。今まで何冊か読んでみたが、初めに手にしたのが「心が疲れたらありのままの自分で生きなさい」(本多信一・著 大和出版)だった。

この本が、「老子の道(考え・教え)」を説いた本だとは知らず、新宿紀伊国屋書店の一角に何冊も平積みにされていた中から、表紙に書いてある題名につられ購入したのがほんとのところだ。それが、読み始めるとなんともすらすら読めることに驚く。「目から鱗が落ちる」ということを、生まれて初めて経験した瞬間だった。

「そうか、こう考えるともっと人生が楽に生きられたか・・・、もっと早くこの本に出会えていれば・・・」が、読み終えた印象だった。
 
最近になって、旭川市の常磐公園内にある中央図書館に行くと、本多信一さんの著作本が何冊も並んでいた。本多信一さんは中小企業診断士でもあるので、「老子思想」の解説だけでなく、企業のコンサルタントを中心に、会社社長の相談、サラリーマンの相談などもしており、それら悩める人の“心の問題”を捉え、著作の中に多く書いている。そのうちの2冊を借りてきて最近読み終えた。

今まで生きてきて考えていたこと、感じていたことを自分なりに絡ませながら、これからこの「Janブロ」に関わって行くことが出来るならば、また新しい生きがいが生まれたというものだ。

タイトルは「パニック障害と『老子・荘子』との出会い」と、ちょっとばかり仰々しいけれど、身近な軽い話を自問自答の立ち話風で進めてみたいと考えています。先ほどGoogleで「老子」を検索すると、なんと680万件以上がヒットした。

といことは、この数字はGoogleだけであって、その何倍もの多くの人が「老子・荘子」について考えているということになるわけだ。

驚いたけれど怯んでいてもしょうがなく、返ってお仲間が多いと勇気付けられると思えばいいことなのだ。どこまで続けられるか、ゆっくりゆっくり昔を振り返り、今を思いながら、書いていくことができればそれでよしと考えている。
 
旭川へ戻ってきてほんとに良かったと思う。天気のいい日に大雪山を眺めていると、東京で苦しんでいた日々は一体なんだったのかと考えてしまう。

50グラムの豚肉とカレーライス [エッセイ]

 私たちの生活を取り巻く新しい脅威、BSE・SARS、そして今度は鳥インフルエンザと次々と発生している。今までなかったものがなぜ今こうして襲ってくるのか。人間にだけにある「業や欲」がそれらを生み出しているのではないのか。

 

 そういう食の脅威が襲ってきているのに、その一方で、やたらと豪華な素材を、惜しげもなく使った料理番組が目白押しだ。それを見ていて、ふと自分達が小さい頃何がご馳走だったろうと、つい思い起こしていた。子どもの頃、母親はあの食糧難の時代に何を作って食べさせてくれていただろうか。

 

 思い出したはカレーライスだった。その頃と言っても45~46年くらい前の話だ。小学校2~3年生だったろうか。母親が内職に精を出しながら私の方に振り向き「今日はカレーでもするか」という言葉を聞くと、もう夕食が待ちどうしくてしょうがなかったのを覚えている。「じゃ、小間切れ〈こまぎれ〉買って来い」。

 

 向かった先は、当時としては珍しい、今のスーパーマーケットの走りのような店だ。現在の一般コンビニ店の2倍くらいある店舗の中に、普通の家庭で賄いきれる、殆どの生活品が置いてあった。衣料品もあったし、酒・タバコ・魚は勿論、コロッケやホッケのフライなどの惣菜も並んでいた。

 

 その奥の一角に肉屋さんがあった。肉屋さんだけは、狭いけれど一つの店舗のようになっていた。母親は「50グラム買って来い」と言ったが、店頭には、確か、100グラム100円 と書いた札があったと記憶している。「50グラムください」と言うまでに少し時間がかかった。50グラムしか買えない恥ずかしさだった。すると店員の女性が、「いくらでもいいのよ」と言ってくれて、やっと50グラムの豚肉を手にすることが出来た。

 

 盛り付けられたカレーライスのてっぺんには、豚肉がしっかり一切れ載っていた。母親は50グラムの豚肉を、兄弟5人に平等に別けて盛り付けしてくれていたのだ。「かあちゃんのは」・・・「わしはいいから」。申しわけない気持ちはあるものの、そこは子ども、食欲の方が勝っていた。

 

 丸いちゃぶ台を囲んで食べた、豚肉が一人に一切れしかあてがわれないカレーライスでも、最高のご馳走だった。そして暖かかった。今盛んに放送されている、所謂、グルメ番組というのを見るにつけ、カロリーの熱さは伝わってくるが、暖かさは伝わってこない。 

 

 食の脅威は、BSE・SARSや鳥インフルエンザだけではない。日本の食料事情は、あえて言うまでもないが、大豆を代表に輸入に頼らなければならないのが現実だ。そう言いつつも日本の田畑は荒廃している。

 

 また、豪華な素材の裏側では、必要以上に多くの命が奪われているのも現実だ。それが、人間がもつ「業や慾」で、その付けが人間に廻ってきているとすれば、私たちはもう少し食について考え直すときが来ていると認識すべきではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


ことばの壁 [エッセイ]

 日本語以外は話せないので、街を歩いていてどこの国の人か分からないけれど、地図を持って近づいてこられたら動悸が激しくなる。まるでトラウマのようだ。
 もう30年も前になるが、27歳の時アメリカ西海岸へ行った時も、英訳本一冊のみだった。英語が話せなくて失敗ばかりだった。旅行用の英訳本では、用を足さないことだらっけだった。トラウマはそのせいだろうと思う。
 

 英語にしても、ハングルにしても、まだ納得はいく。そういう言葉の文化の国に生まれ育たなかったから、と言い訳けじみたことも言えるからだ。

 しかし、日本語でも他人に「あること」を伝えたい時にどうしても伝えられないことがある。この頃特に感じるのは“気”である。気と言っても空気のほうだ。周りの空気・その時代の空気・その場の空気などである。

 現在、インタネット新聞 JANJAN に投稿しているが、その難しさを痛感している。時代を超えた、例えば戦前の戦争する国に向かっていくどうしても抑えきれない空気。ましてや戦後生まれにとって、体験していないからなおさらである。年輩の経験者にその時代の話を聞いて、それを伝えたいと思ってもかなりの無理を感じる。

 「ああ、だから歴史は繰り返すと」いわれているのかと、変に納得してしまう。戦前・戦中を生き抜いてきた「生き証人」の言葉を伝えようとすると、どこにその文献があると言う。文献・文章がなければ事実はなかったと、どうして言えるのだろうか。理解できない。

 あの「地獄で修羅場」であった所を通り抜け、無事帰還した人の何人が、その時代の文章を書き残していると言うのだろう。

 戦場体験者にとって、「思い出したくない、忘れてしまいたい」ことを文章にはなかなかできないだろう。

 今を生き、これからを生きる人は、どうのようにその人たちの気持ちを受け止めているのだろう。その先人たちの多くの人が、戦争に向かっていった戦前の空気に、今の空気がそっくりだと警告をしている。

 さあ、その空気をどう伝えるかである。今、かなりのことばの壁を感じている。

 

 


赤が眩しい ぼけの花 [エッセイ]

                      ぼけの花

           

 最近、東京に住んでいる同級生と電話で話をする機会があった。「朝とか夕方のニュースを見ていると、人ととして、心の置き場所に困っているのでないかしらって考えてしまうの」と言っていた。何処のチャンネルにあわせても、嫌なことばかりで、ついスイッチを切ってしまうらしい。

 同級生って考えることは同じだなと笑ってしまった。そう言う自分もこの頃朝は、彼女と同じように辛いニュースになるとスイッチを消している。テレビは、天気予報とスポーツ番組を多く見るようになってきた気がする。

 「心の置き場所か。一分どころか秒単位で動いているんじゃ、置き場所を探す時間もないじゃん」。彼女に釣られて、つい浜弁がでてしまった。

 彼女は盛んに尼崎脱線事故のことを話していた。事故で亡くなった方の中に若い人が多かったので、自分の息子や娘と重なってしまうようだ。あの事故の後、娘の帰りが遅いとつい娘の携帯に電話して何時ごろ帰るか確認しているらしい。

 結局、同級生二人の結論は「日本中、急ぎすぎている」だった。そう言えば、かなり昔になるが「そんなに急いで何処にいく」という何かの標語があったのを、電話の最中に思い出していた。

 さて、今日も散歩である。なにげなく歩いていると、見事に白い花を咲かせた、さくらんぼの木に目を奪われた。そう言えばこの家では、さくらんぼの実が垂れ下がると、毎年のように子どもたちが脚立の乗って、さくらんぼの実をもぎ取っていた。

 その木の下には、ぼけの木が赤い花を咲かせていた。地を這うように枝を伸ばしている。そのぼけの花にカメラと一緒に顔を近づけると、土の匂いが蒼臭い。いつも雪解けになると、この匂いを嗅いで春を感じていた。ここにはまだ春の匂いが残っていた。

 

                                                               さくらんぼの木

       

                      

       


60年代のアメリカンポップスを聴いていますか [エッセイ]

 になるとどういうわけかアメリカンポップスを聴きたくなる。陽気に誘われて気持ちが昂ぶっているからだろうと思う。窓の中腹くらいまで積もっていた雪が、日差しの眩しさが増すにつれて、何もなかったかのようにその姿を消した。

 体の中に隠れていた旋律が、何処からともなくリズムを取り戻してきたてきた。幾つになっても変わらないこの衝動が少し恥ずかしい気もする。その時必ず聴くのが、60年代に流行っていたアメリカンポップスだ。とりわけ初めにかけるのがトロイドナヒューが歌っていた「恋のパームスプリング」である。この曲は春にぴったりだ。辛かった雪の季節をこの1曲ですべてを忘れさせてくれる。

 ご存知だと思うが、この曲は「パームスプリングの週末」というアメリカ映画主題歌である。この映画を観たのはかなり後になるが、それでも音楽を聴いているだけで、アメリカ西海岸の焦げ付く太陽の下、若い二人が砂を両足でしっかり掴みながら海辺を駆け回り、青春を語り合っている姿が容易に想像できた。

 1977年の夏、サクラメントに住んでいた友人の誘いもあって、2週間ほどアメリカに西海岸に一人旅をしたことがある。残念だったけれど「恋のパームスプリングの週末」を楽しむことはできなかった。旅行英会話本1冊を後ポケットに収めながらの旅だった。現地で飛行機の手配など、どうしていいのか分からず、とうとう行くことができずに旅を終わったのが今でも心残りだ。

 でもいいこともあった。訪れた先の街外れにあったレストランで、椅子に座ると向い側に座っていた老人に、目で挨拶すると、しわくしゃな笑顔で返してくれたあの顔は、今でも忘れていない。初めて体験した国外旅行でのほっとした一時だった。

 近頃、60年代の音楽を聴いてその後に最近の音楽を聴くと、ぬくもりが感じられないのは歳のせいだけなのだろうか。何かしらリズムが単調でこれといった特徴もなく薄っぺらさえ感じる時がある。そこからはじき出でて、突き抜けようという躍動感がない。そこにいることでの安泰を求めているようにも受け取れる。言われたことだけをしていればそれでいい。そこからでることが危険だのように。

 そのマンネリした音楽が若者から創造する力、考える力を奪っているのではないだろうか。若さの特典は、創造する力を泉のように湧き出すことができることなのに。すべての生活基盤が、スピードを求めすぎているせいなのかもしれない。そして、機械(ハード)中心の生活が、なを一層スピードを追いかけさせているのだろうか。

 初老をも唸らせる若者の音楽を聞いてみたい。

 

 


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